Quadrifolium's blog

元海外赴任サラリーマンの独り言です。

90年代

海外駐在員は孤独である。

 

昔,地獄先生ぬ~べ~という漫画があった。その第91話が今も忘れられない。

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霊能力教師であるぬ~べ~は,ある日学校の遠足の下見のため山奥にやってくる。そこで目にした廃坑に入ったところ不運にも落盤事故にあい,中に閉じ込められてしまう。暗闇の中で一人長い時間を孤独に過ごすうちにぬ~べ~は孤独に耐えられなくなり,精神的な限界を迎える。彼は死者を生き返らせる術のことを思い出す。それは禁呪として決して行ってはいけないとされていたが,ぬ~べ~は話し相手が欲しいという思いを抑えきれず,廃坑の中に転がっていた人骨をよせあつめてその術を実行してしまう。そしてあろうことか成功する。タブーを犯してまで話し相手を得たぬ~べ~は徐々に生きる意欲を取り戻していくのだったが・・・,物語は悲劇的な結末を迎える。

 

ジャジャン研 - 『地獄先生ぬ~べ~』少年ジャンプ掲載データ (jajanken.net)のデータによると,この話が掲載されたのは1995年。

時代はバブル崩壊真っ只中。1990年代の半ば~後半は,本当に暗い雰囲気が社会に満ちていた気がする。絶望感というか。

ただ,その一方で,文化や芸術の面ではこれまでなかったような深みのある作品がたくさん作られた時期でもあったように思う。小説にしろゲームにしろ映画にしろ。暗い作風ながらも心を深く刺す,深く考えさせるような作品が色々あった。似たような感想を書いている人がほかにもネットにいたので,こう思うのは私だけではないようだ。これはどういうことだろうか。私が思うに幸せなとき人の思考は浅くなる。生きる意味とは何かなんてことを鬱々と考えたりしない。楽しいことをやって人生を楽しまなきゃ!って感じである。一方,不幸な人は何のために生きているのか,人類の行く末は,など哲学的なことを考えがちになる(これも人によるが)。そこを限界まで突き詰めていくとアートとしての高みに至る。

90年代後半の日本人は不幸だった。もちろん,アフリカの貧困地帯とかに比べればずっとマシだろうが,幸せというのは相対評価である。それまでの幸せが失われたとき,自然と人はこれまで見えていなかったものを見るようになる。今まで気づかなかったことに気づく。本当の幸せとは何かを改めて考える。内省する。そういう意味ではあの時代には一種の文化的豊かさがあったように感じる。

しかし2000年代に入って日本は諦めの境地に入ってしまった。不幸は不幸かもしれないが諦めモードは一種の思考停止なので深い芸術を作り出すことはできなくなる。学習性無力感というやつである。すでに大きなシステムができあがっていて,その中で自分がいけるのはここまでだ,みたいな限界が人生の早い段階で見えるようになると大きな希望など持てなくなる。そして文化は浅い娯楽ばかりになる。

今でも日本人は戦国時代や明治時代を舞台にした話が大好きだが,それは社会が混沌としていたからだと思う。大きく社会が動き,支配的な価値観が変わるときというのは歴史の中でもそうそう何度もやってこない。混沌は文化の母である。混沌がなければ文化は自己の縮小再生産に陥り,何も新しいものを生まなくなる。

本当に感動を与える物語というのは,人生で地獄を見た人間にしか作れないと思っている。しかしその地獄を自己の問題として主体的に受け止めることが必要である。自分は被害者であると認識している限り,自分の不幸な経験を芸術に昇華することはできない。

今後日本からどれだけ深みのある文化が生じうるのか,気がかりだ。