過去を振り返って内省する時間が増えた。
前の仕事の時から付き合いがある人とときどきメールのやりとりをしていたのだが,こちらは今の仕事が大変でストレスがあり,メールの返事が遅れがちになった。すると相手の癇に障ったらしく返信がまったく来なくなった。まあ私は別に困らないのだが,10年以上の付き合いも終わるときはこんなもんか~~と思うとなかなか趣深い。
今までの人生,いろいろな人と知り合って付き合いをしてきたが,結局今の今までつながっている縁は本当に少ない。片方が気を遣う関係というのは,利害関係がなくなると同時に消滅するものだ。今の会社の知り合いも,今の仕事に必要だからこそ丁寧に接している(もっと言えば,媚びている)わけであって,この会社を辞めたらすぐに縁を切ってもいいかなと思う。損得勘定なしに付き合いたいと思える人はほとんどいない。
過去の証とは何だろうか。自分がやってきたことは,その当時は達成感があったが,今となっては過ぎた話で誰も覚えていない。関わる相手も時とともに移ろうので,築いた人間関係もいっときのものでしかない。何が「今」に至るまで残っているのか,不明である。人生の証とは何なのだろう。歴史上の偉人,たとえばニュートンやダーウィンのような人は人類史に確固たる足跡を残したと言いたいところだが,それも微妙だ。ニュートンやダーウィンがいなかったとしても,ほぼ同じ発見を他の科学者がやや遅れて成していたであろうことは疑う余地がない。徳川家康がいなくても誰かが日本を統一していただろう。
社会の中で自分の居場所を確保するために必死で生きてきたが,そもそも社会というものにそこまでの価値があるのか疑問である。社会の動きというのは個人がどうにかすることで影響を与えられるようなものではない。過去に戻って歴史に干渉できるとしても,日本の太平洋戦争開戦は止められないだろうし,敗戦も止められないだろう。アメリカがイギリスから独立することも変えられないだろう。
個人の人生には偶然というものがある。たとえば現在の結婚相手ともし同じパーティにあのとき参加していなかったら出会っていなかった,とか,あの時ドライブに行かなければ事故で重傷を負うこともなかった,いうような話だ。しかし歴史には偶然はないというのが私の考えだ。全て必然であると思う。ある出来事が,少し早まるか,少し遅れるか,ぐらいの違いしかないだろう。ベルリンの壁の崩壊の引き金を引いた,ギュンター・シャボフスキーの生放送でのうっかり発言がなかったとしても,遅かれ早かれ壁は崩壊していたと思う。
社会に関わることに意味があるとはどうしても思えない。ただ,生活のためには働いて税金を納めるという今のルーチンを繰り返すしかない。そこに何の意味を見出せばよいのだろうか。
こういう悩みは中年の危機 - Wikipediaと呼ばれるようだ。多くの人が中年になって通る道らしい。若いときは経験もなく世渡りに苦労するので余裕がない。年をとると頭も体も弱ってきて心細くなり保守的になる。そのちょうど中間の,最も知恵と健康とエネルギーのバランスがよいはずの時期に,人生の意味について悩む人が多いというのは皮肉なものだ。楽しいことは大概もう若いときにやってしまった。かといって全く新しいことにチャレンジして今から茨の道を進むのは怖い。後の人生,何をすれば?という感じであろうか。
以前,アメリカのある大学にお邪魔したとき,60過ぎくらいの白髪の男性がいた。もともとアメリカで金融関係の仕事を長年してきたが,今は定年退職し,大学に通いなおして自分の好きな物理学の勉強をしていて楽しいという話であった。今が楽しいのはいいことだが,しかし60を超えるまで自分が本当にやりたいことをできないのは,人生としてどうなのか,と私は妙にひっかかるものを覚えたのも事実だ。
以前,伝記で読んだが,歴史に残る科学的発見を成し遂げてノーベル物理学賞を受賞したイギリス人科学者のディラックは,晩年,若い物理学者に「私の人生は失敗だった!」といらいらした様子で叫んだ。それを聞かされた若い物理学者は「ディラックの人生が失敗なら,私の人生はどうなるんです?」と言って困惑したそうだが当然だろう。
人生の主観的評価は,社会的評価とは遠く隔たったところにあるのだ。