Quadrifolium's blog

元海外赴任サラリーマンの独り言です。

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snowman_88888さんのブログの記事

研究で詰まっている時におススメな本 - Seitaro Shinagawaの雑記帳 (hatenablog.com)

に「確かに。」と深く納得する話がいろいろ書いてあったので,一部だけ引用させていただく。

研究の進め方は大きく二つ、「トップダウン型(リサーチクエスチョン型)」の研究と「ボトムアップ」の研究があるといわれています。トップダウン型の研究というのは、明らかにしたい仮説があり、何をすればそれが明らかになるのかを逆算して進めていく研究です。対してボトムアップ型の研究は、先行研究をベースとしてその課題を見出し、解決するような研究や、既存のものを組合わせて何かやろうとする研究(問題よりも解決方法が先に決まっている研究)を指すものだと、私は解釈しています。一般に、研究ではトップダウン型の研究が好まれ、研究指導でも「トップダウン的に考えよう」という指導が入ることが多いと思います(「トップダウン至高教」と私は呼んでいます)。 

 これは確かにそう。トップダウン型の研究こそ良い研究の流儀,というかそれ以外は研究じゃない,みたいな風潮に私はずーーっと悩まされてきた。

たとえば「アルツハイマー病の原因は何か」「その治療薬は」みたいな問題設定から入るのがトップダウン型。「脳細胞の中にある謎のたんぱく質XXXは一体どういう役割を果たしているのか」,「ある病気に有効な薬剤Xは他の病気にも効くだろうか」みたいに具体的なゴールを設定せず探索するのがボトムアップ型,と言っても間違いではないと思う。

私は骨の髄までアンチ・トップダウンである。今までの研究の9割以上はボトムアップ型でやってきた。ただ,それだと論文や特許にしづらいので,研究が完成してから全体の構成を組み替えて,あたかも1つのゴールを設定してそれに到達するために研究していたかのように装う。たとえば薬剤Xが別の病気Wに効くとわかったら,「最初からWの治療薬を探してました。そしてついに見つけました」みたいなノリで論文を書く。

でもこれが疲れるんだよな。トップダウンは好きじゃないから。

今いる会社でも上から「〇〇という問題設定のもとでスゴイ技術を作れ」みたいにいつも研究の方向性を決められるからイライラする。既存の技術を組み合わせて役に立つ新しいものを作るだけでも十分有意義だと思うんだが,一部の人たちはあくまで「最初に問題設定を!まずは問題設定を!」と言って譲らないので,うざいったらありゃしない。お前のやり方だけが研究のやり方じゃねえよ。

〇〇という課題を今年度は解決します,みたいに大げさな問題設定をして,結局つぶれて何も成果が出なかった,という場面を社内で何度も何度も見てきた。「そんな深すぎる問題設定じゃ手も足も出ないでしょ」と思っていたら案の定である。そういう大胆な研究の進め方は,自分が超優秀であると認識している人,もしくは十分な予算と時間があって失敗が許容できる人,しかやってはいけないと思う。私はいつも使えそうな技術を組み合わせて最後にひとひねりすることで,少なくとも何らかの目的に有用な技術を作ってきた。会社というのは成果が全ての場なのだから,掛け声だけで倒れるよりも具体的な成果を出すのが第一のはずだ。なのに私のような考え方が会社のお偉いさんに認識されないのはなぜなのか。

彼らの思考が硬直しすぎている気がする。彼らは「難しい問題設定をして,見事にそれを成し遂げたので出世したスーパーマン」たちが多く,それ以外の研究の仕方を知らないので,ボトムアップ型を許容できないのであろう。残念だ。

NieRモーション

NieRのモーション動画を見ていたらストレス発散になった。

 

www.youtube.com

 

結局3回も見てしまった。

ゲームプレイ中はモーションが速すぎて目で追えないので気にしていなかったが,スローモーションで改めて見ると作りこみがすごいな。

500万回も再生されてるだけあるわ。

ちなみにお気に入りは10分57秒~の「大型剣×槍」。

 

市から郵便物が来たが,その処理に関して不明点があったので市のコールセンタに電話した。そしたら英語が速すぎて半分以上聞き取れなかったんだが,こちらが「もっとゆっくり話してください」とお願いしても絶対ゆっくりしゃべらないんだよな。ずっと同じペースでしゃべり続ける。これは移民に対する嫌味なのか?いやがらせなのか?

 

こういう感じで,海外に住んでいると心にグサッとくることはしょっちゅうある。そういうのを乗り越えて日本に帰任し一つ上のポジションをゲットした社内の先輩諸氏を見ていると,みんなそろって共感能力が低いという共通点がある。つまり人の心情を察する力が弱くて,「相手が困っていようがよそ見していようがお構いなしにしゃべりまくるタイプ」と「何を考えているのかわからない,だんまり寡黙タイプ」にきれいに分かれる。

 

ある人A(長い海外赴任の経験者)が別の人Bに仕事を依頼している様子を見ていたことがあるが,Bはとにかく嫌がっていて,仕事を振られても困るんだということを色んなやや婉曲な表現でAに丁重に伝えてきていた。で,その長い会話が済んでBが去った後,私が「これは引き受けてもらうのは絶望的だな,あんなに嫌がってたし・・」と思っていたら,Aが「よかったよかった,これは大丈夫そうだな。もう安心だ!」と上機嫌で言っていて,私はびっくりした。後日,Bは(やっぱり)その仕事は無理ですと申し入れてきた。私には当然に思えたが,Aはびっくりしていた。

 

また別の機会に,ある人C(長い海外赴任経験者)が別の人Dのことを「あの人この会社のこと本当いやになってきてるよ,あの調子だともう辞めるよ,云々」と言っていたのだけど,私から見るとDはもう定年までこの会社で過ごすことを決意しているように見えたので意外だった。で,それから数年経つが,Dは辞める気配はない。この件に限らず,Cは自分の意見は押し通すのだが人の意見に気配りをしない人間で,とにかく共感下手である。

 

こういう鈍感な人たちが過酷な海外赴任や炎上プロジェクトをものともせず生き抜いてどんどん出世していく一方で,繊細な人たちはなかなか出世しない。私の知っている先輩で,とても懐が深くて自分とは違う意見も傾聴する,すごく人間ができている人がいるのだが,その人は年齢の割に出世が遅れている。

 

ある会社で副社長まで上り詰めた某氏は,もともと地方の工場の出身で,その工場長まで務めた。なので工場で働いている人のほとんどはパートも正社員も知り合いだった。で,本社に栄転し,やがて会社全体のコスト削減のリストラ計画を立案する立場になって,リストラの一環としてその工場を閉鎖したという。自分の知り合いたちがたくさん働いている工場を情け容赦なく切ったのだ。

 

大きな会社組織というのは人間性を犠牲にしなければ権力が得られない仕組みになっているらしい。本当に気持ち悪い。

どっこいしょ

会社の上層部は学会発表しろとか論文を書けとか利益に貢献しろとかすぐ製品化しろとか,同時に達成するのが困難な目標を同時に達成するよう研究開発部門に毎度毎度圧力をかけてくるので本当に嫌になる。

目標A,B,Cを同時達成するようなテーマ設定は困難です,強いて優先順位をつけるならどれが大事なのですか?と上司に問うたこともあるが,ある上司Xは「全部です・・・」と暗い顔で答え,別の上司Yは「うーん,ABCのどれか1つ,ですか,強いて言えば『3つの中間』ですね」と言っていて,うんざりした。結局,彼らは「ABCどれもちょびっとずつ達成していると主張(コジツケ)できるような研究」を勧めてくる。すると何も尖ったことはできないので,角のとれて丸くなったこじんまりしたテーマばっかりやることになる。

あげくに一部の研究者たちをぞろぞろと異動させて営業がやるような客寄せの仕事をさせている。そんなん博士号いらんやろ。なんで博士を採用してんだ,と言いたい。

 

大企業というのはどうして「オールラウンダー」を求めるのだろうか?ジェネラリストとも言うが。その人が得意なことを伸ばすのではなく苦手なことをなくすよう常にプレッシャーをかけてくる感じだ。ジョブローテーションとかいう謎のシステムによって研究者は特定分野のスキルを長期的に伸ばすことを妨げられている。お客と会話するのは苦手だけど論文を読んだり特許を出すのは得意という人もいるが,そういう人の居場所は減る一方だ。客寄せは本職(ビジネス部門)にやらせればいいではないか。シーズの発見・基礎研究から製品化・マーケティング・納品まで研究者が全部できるのなら,ビジネス部門の存在意義がなくなる!

こないだエライ人が「わが社の研究開発はどうして国際的なプレゼンスが低いのか」云々かんぬん言ってげきを飛ばしていたが,笑ってしまった。そんなん理由はわかりきっている。毎年各自の研究テーマががらっと変わってしまうような流動的な環境が1つ目。野心的な研究テーマを掲げてもしも失敗したら大きく査定が下がる,究極の減点主義の人事考課制度が2つ目。そして会社の提示する年収が国際水準で低いためトップ人材を雇用することができないのが3つ目だ。しかし誰も指摘しない。研究者はみんなわかっているのだが,言うと上層部に何をされるかわかったものじゃないので,ただ黙って耐えているのだ。耐えがたきを耐え,忍び難きを忍び・・・。

 

ところでAI系の論文を出すとき,新しい手法の有効性を示すために通常は3つのことをする。

1.理論的に性能を保証する。(数学的に厳密に。)

2.いろんな環境でテストする。(たとえばロボットを砂地で歩かせたり,坂道で歩かせたり,横から押してみたり,水たまりを歩かせたり,etc.)

3.他の手法と比較する。

しかし,このどれも完全にやりきるのは不可能である。

1.現代のAIは複雑すぎるので何かを理論的に「証明する」のはまず無理。何度も実験を繰り返すうちにこういうやり方でうまくいきました,という経験知が現場では一番重要。

2.どんなに時間と手間をかけても,「全ての環境」で実験を行うことは不可能。環境は無限にあるから。

3.他の手法は多いときは数十もあるので,全ての手法と比較するのは無理。たとえば人型ロボットの歩行性能を調べるために世界中で販売されている人型ロボットを全種類購入したらそれだけでいくらかかるのか??

 

つまり,どんなに丁寧に頑張って書かれた論文であっても,上の3つの急所をちくちくと突いてやれば却下(出版拒否)することは極めて容易である。なので,ある論文が出版されるかどうかというのは,(よほど論理の破綻した論文などを除いて)結局はどんな査読者にあたるか,という運ゲーになる。完全に運の世界である。

 

なので全然やる気がでない。考えてみてほしい。あなたが高校生だとして,受験の採点は一人ひとりの採点官の気分によって基準が全然違います,と言われたら受験勉強を頑張る気になるだろうか?あほくさいという気分になるだろう。

 

やる気がでないのでビールを飲んだら少しマシな気分になった。はぁ。

変人の国のRamen

日本の味が恋しくなったので若干遠出して日本風ラーメン屋に行った。店員は中国系だったがラーメンは普通の日本のラーメンという感じで,スープもだしが出ていて割とよかった。餃子もまともな味だったのでほっとした。土曜かつオフィス街なので客は少なめだったが。

ラーメン+餃子+お茶(お~いお茶のペットボトル1本)で,チップも入れて33ドル。日本円で3600円か。やはり高い。日本でこれだけ出せばホテルのレストランでコース料理が食べられるぞ・・。

ネットでこのチェーン店のQ&Aを見ると「ビーガン向けのメニューはありますか?」という質問があって,ああアメリカらしいなと思った。こちらのレストランはビーガンやベジタリアン向けに肉や卵を用いない料理を用意しているところが多い。しかし面倒くさい人たちだな~,関わりたくないな~としみじみ思う。だって結局は好き嫌いが激しいってことだからね。自分で自分の食べられるものに制限をかけているくせに,肉っぽい味のおいしいものが食べたいからスペシャルメニューを用意しろと主張するのは自分勝手すぎる。アレルギーがあって食べられるものが限定される,みたいな事情がある人はもちろん別だけど,単に自分の好みが偏っている人はちょっとねえ・・・。

アメリカには「ワクチン陰謀説」を頑なに信じていて未だにワクチンを打とうとしない人も非常にたくさんいるし,進化論を絶対に教えない(聖書に反するから)という学校もあるし,どうも偏屈というか主義主張に癖の強い人が多すぎる気がする。私はたまたま海外駐在しているだけだから別にいいのだが,こういう国に永住はしたくない。

 

生涯に2つのノーベル賞(化学賞と平和賞)を受賞したアメリカ人科学者のポーリングは天才であったが,晩年はビタミンCの大量投与で末期癌が治るという過激な主張を繰り返して世間を混乱させ,強い批判を浴びた。今ではビタミンCの大量投与は腎不全などの副作用が強いこともあり欧米では治療目的で行うことは禁止されているようだ(近藤誠の重要医療レポート|近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来 (kondo-makoto.com))。しかし,こういう「根拠の乏しい思いつきであっても世間の目を気にせずに強く主張する」という態度は極めてアメリカ人らしいと思う。振り回される方はたまったものではないが。天才と何とかは紙一重というのを地で行く国だ。

 

時価総額トヨタを超えるテスラを一代で築き上げたイーロン・マスクからも同じ匂いがする。彼は発達障害を公表しているが。たぶん彼をサポートしてくれる優秀な部下たちを集めるだけの人間的魅力があるのだろう。

ふぐ

ここ2週間というもの,ひたすらある一つのテーマについて集中的に勉強と研究をしているが,なかなかうまくいかない。これは!と思うアイデアは浮かんでも検索しまくるとほぼ同じアイデアが数年前の論文に出ていたのが見つかったり,これこそ有効な手法だと思っても数値実験を何度か繰り返していくうちにうまくいかないケースが判明してしまったり。がっかり。自分の生産性の低さに忸怩たる思い。別に会社に対して忠誠を誓ったわけではないが,給料をもらっているのに成果が出せないのはさすがに申し訳なくて悲しくなってくる。。。。。

ふぐの安全な食べ方が確立されるまでには数えきれないほどの犠牲者の貢献があった。江戸時代には人体実験も行われたようだ。こういう尊い犠牲の上に我々の文明の進歩はあったのだから,今の私の地獄もきっと人類史的には意味があるのだろう(適当)。

ようやく1つ新しい技術を考えてはみたが,これまであった複数の技術をいくつかいいとこどりして組み合わせただけで独創性が全然ない。これではまだ弱いな・・・・。あと1つひねりがあればいいのだが。

しかし論文にある技術・手法というのは,「いろいろな長所があることが理論的に証明でき,なおかつ実験でも良好な性能が確認されている」と美辞麗句が書いてあっても実際に具体的ケースで試していくとボロが出ることが非常に多い。だから私はAI分野の「理論」というのは全く信用していない。この分野の人たちは自分らの分野をコンピュータ・サイエンスとかデータ・サイエンスと呼ぶのが好きなようだが,中身を見るとサイエンスの要素は少なく,どこまでもエンジニアリングである。

政治学をポリティカル・サイエンスと呼ぶことからもわかるように,言葉の響きによって何やら客観的な真理を探究している雰囲気を醸し出そうとしているが,問題だと思う。なんでもサイエンス呼ばわりするな。

 

 

ふえぇぇ

やる気が出ない。だるい。眠い。ふにゃふにゃ。

 

研究開発を橋の設計と建築にたとえるなら。

世間が企業の研究職の仕事だと思っていること:橋のかけ方を改善し,新しい橋をかける。

実際に大企業の研究職がやらされがちなこと:新しい橋ができたと聞いたら,すぐとんでいって買い取り,舗装を徹底的に改善し,手すりをつけ,綺麗な色に塗装し,赤じゅうたんをひいてゴージャス感を出し,雨の日に備えてルーフを設置して,高い通行料をとる。そして他の橋に行って,自社の橋の広告をぺたぺたと貼りまくる。で,橋をかける能力のある大学研究者のところに行って資金提供し,新しい技術ができたら真っ先に自社に提供するように契約を結ぶ。

 

という感じかな。つまり「橋のかけ方も知らないけど橋の研究職やってます」という状況が,本当にありえるんだよね。怖いことに。誰かの作った橋をコピペして,あとは綺麗なじゅうたんを低予算でひくだけだから。本質的な橋の設計なんて知らなくてもできる仕事ばっかり降ってくる。

そもそも「研究開発部」という名前が間違っている。これを「トレンド技術コピー部」という名前にすると一番しっくりくる。なのに,何かプライドがあるのかしらないが,企業は「うちで研究開発やってます」という看板をあげたがるんだよね。

なので,本当に技術開発をしたい人は尖ったベンチャーに転職したり大学教授に転身していってしまう。また,研究とも言えないような表面的な研究をやってお茶を濁すくらいならきちんとビジネスを展開して社会にインパクトを与えたい,と本気で思う人は異動願いを出して研究開発から事業部門へと移っていってしまう。なので研究部門に残っている人は,最先端技術にもビジネスにも興味がない,目の虚ろな,ローンを抱えた無気力安定志向人間ばっかりになりがち。

 

これからは技術が高度化する一方でそれをブラックボックス的に使う人がますます増えていくんだろう。タクシー運転手は車の設計なんて知らないわけで,「車のことはわからないけどそれを操作してお客様に提供するサービスで食っていきます」という仕事なわけだ。で,今後もし自動運転が実用化されたら,運転技術すらも不要になり,「AIを搭載した車を買ってきてお客さんに行先を聞いてそれを車のシステムにインプットして後は運転席でぼーっとしてるだけ」になってしまうだろう。そうなると,「アメリカや中国のトップ企業やトップ大学で何千万も稼ぐエリートAI技術者」と「低収入でぎりぎりの生活を送るたくさんの日本のドライバー」に二極化してしまう。中間がすぽっといなくなってしまう。そうなるともうこの国はだめだろうな。こういう「中抜け」が,技術の進歩によって社会のあちこちで進んでいるような気がする。